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古賀一飛曹の零戦 ジム・リアドン [書籍]

古賀一飛曹の零戦―太平洋戦争の流れを変えた一機

古賀一飛曹の零戦―太平洋戦争の流れを変えた一機

  • 作者: ジム リアドン
  • 出版社/メーカー: エイ出版社
  • 発売日: 1993/06
  • メディア: 単行本
 
【プロローグ】
 
【第一章 空気力学上の不可能】
 クレアー・シェンノートが零戦のレポートを送ったのが1940年の秋。サッチ少佐がサンディエゴでそのレポートを目にしたのが1941年秋とあるが、その直後にこの新型機に対抗するための方法、サッチ・ウィーブを考えたのが1941年秋と書いてあるから矛盾している。太平洋戦争開始前には考案されていたのは間違いなさそうだから、1941年秋が間違いか。
 
【第二章 零戦の設計過程】
 零戦の旋回性能として、時速370km/hで6秒以内に180度旋回が出来るとあり。その際の速度のロスは64km/h、前進距離は370m。
奥宮正武氏の記述あり。1986年10月に「戦時中のアラスカ」という試写会に出るためアンカレッジにを訪問したらしい。77歳、身長約150cm、体重43kgというから、当時としても小柄な人物だったようだ。
 
【第三章 息の長い零戦】
 
【第四章 真珠湾での零戦】
真珠湾で撃墜した零戦の残骸も調査はされたらしいが、装甲板、防漏式燃料タンクがないこと、エンジンの出力が推定された程度だったようだ。
真珠湾攻撃以降では、1942年2月19日にオーストラリアのダーウィン急襲時にメルヴィル島に墜落したものが調査対象になったらしい。これは豊島肇氏が搭乗していたものとある。その次は1942年4月28日にニューギニア近くのロドニー岬で墜落した機体で、発見時は修復可能なレベルだったらしいが回収時に主翼桁を切断してしまったらしい。1942年の終わりに中国でも21型が捕獲され、フライングタイガースから米陸軍へ、そしてヒマラヤを越えてインド経由で1943年にライト飛行場の陸軍研究所に届けられた。
 
【第五章 第一次ダッチハーバー襲撃】
 
【第六章 ミッドウェイ海戦での零戦】
ミッドウェイでTBDを護衛していたワイルドキャットが零戦を撃墜しているが、これがサッチ・ウィーブが使われた最初だったとある。
 
【第七章 嵐の中の日本艦隊を追って】
 
【第八章 失われた古賀の零戦】
 1942年6月4日、午後5時55分から6時55分の間に日本の部隊がダッチ・ハーバーを攻撃。これに参加していたのが遠藤費曹長、鹿田二男飛曹、古賀忠義一飛曹の小隊。戦後の鹿田飛曹の証言によると、小隊はダッチハーバーに投錨中の2機のPBYに対して降下攻撃をした際に、地上からの機銃掃射により古賀機が被弾したとのことだが、米軍側には6月4日にPBYが機銃掃射を受けた記録はない。また回想によると、古賀機はエンジン部からオイルが機体の尾部まで筋を引いていたとのこと。この内容は後日の古賀機に関する米軍側の記録、つまりオイルパイプの破損と一致する。ちなみに50口径弾により破断らしい。
古賀機を含む3機は、不時着時の回収ポイントであるダッチ・ハーバーの東40kmのアクタン島に向かうが、不時着に失敗した。搭乗員を回収するはずの潜水艦は一応海岸を捜索したらしいが、発見できなかったようだ。その後水上機母艦「ウィリアムソン」に発見され、さらに2、3日後PBYに爆弾と爆雷攻撃を受けたが、日本に帰り着いている。
 
【第九章 古賀の零戦の発見と修理】
 古賀機は約1ヵ月後の7月9日、パトロール中のPBYが上空から発見。後日、現場まで船で行って確認すると、脚柱はもぎ取られ、フラップ、増槽タンクは壊れ、翼端、垂直安定版、方向舵後縁も損傷していた。その他の攻撃による損傷は12.7mm機銃により上下から打ち込まれた弾痕が複数あった。つまり、地上からの機銃だけではなかったらしい。
回収は足場が悪いため何度か繰り返し行われ、最終的には3次隊が7月15日に引き揚げた。ダッチ・ハーバーでの調査では、ラジオ・コンパスがフェアチャイルド航空カメラ会社製だったことに驚いたとある。またラジオからはずしたジェネレータがエクリプス社製でこれも米国製だった。エンジンはシリンダーのいくつかに錆が出ていたが、ほぼ問題ない状態。
この機体がサインディエゴのノース・アイランド海軍航空基地に到着したのは8月12日。修理は目隠し、見張りつきの中でしかも24時間体勢で行われ、9月25日までに飛行可能な状態になっていた。
 
【第十章 再び飛んだ古賀の零戦】
 エディ・サンダース少佐が復元零戦のテストを実施。証言としては以下の様。低速では優れた運動性を発揮し、超低速での旋回半径の小ささと補助翼の効きはすばらしい。しかし370km/h以上では補助翼が聞かなくなり、旋回性能が落ち、操縦桿の操作に力を要する。旋回は右より左がはるかに楽で、キャブレターがフロート式のためマイナスGがかかるとエンジンが停止する。少佐の印象では復元の程度は98%の修復といったところらしいが、2%が何かは不明。シリアルはオリジナルと同じ4593のままとされたが、塗装は海軍式に塗り替えられた。他にテストしたのはフレッド・トラップネル准将で、二人でF4U、F4Fでの対戦も行った。
その後、メルヴィル・ホフマン大尉が更にテストを行い、アメリカの各種戦闘機との比較を行っている。その他ではウィリアム・N・レナード少将が1944年9月と10月にこの機体に乗った、彼はその後グアムで捕獲した52型も飛ばしている。レナード氏の零戦に対する評価として、「空気力学的設計は何一つ大量生産の犠牲になったところはなかった」というコメントがあるが、逆に言えばやはり量産はあまり考慮されていなかったということか。また、「全ての外板、鋲、正確に整えられたフェアリング、エンジンカウリング、点検扉、キャノピー脚扉などは正確にぴったりと合うように仕上げられていた」とあるが、これも逆に言えば米軍機はそこまで正確に作られていなかったということ?F4F-3、4との比較でR-1830の冷却のためにスピナーをはずさなければならなかったのに対し、零戦はスピナーつきで「驚くほど小さい吸入口にも関わらず」十分冷却されていた、というコメントがある。F4Fがスピナーを付けなかった理由の一つと言っていいのかな。また、少なくとも氏が搭乗したときにはAMCは故障していたようだ。52型との比較では、52型だけに排気温度計があったとあり。テールフックについて米軍機では零戦のような仕組みは「誤作動して制動不能着艦の原因になるのではという心配からこの方法を諦めたと私は聞いている」ってあるけど、何が心配なのかよくわからない。
その後サンディエゴでは複数のパイロットが模擬空中戦を行ったり、自ら操縦した。
 
【第十一章 古賀の零戦の重要性】
「古賀の零戦のおかげで飛行戦術、新鋭機の設計、そして第二次世界大戦後半に使われた航空兵器の開発など数多くの改良を可能にしたのである」というジェームズ・S・ラッセル退役海軍大将の言葉が載せられているが、具体的にどの兵器開発に役に立ったかの記述はなし。やはりその後に述べれているように、零戦の性能特性を十分に把握し、戦う備えが出来たというのが一番のポイントだろう。
 
【エピローグ】
問題の4593号機は1945年2月に訓練飛行のための地上滑走中、ヘルダイバーに衝突され尾部からコクピットにかけて破壊された。残骸は格納庫内に残されていたが、そこから吸気圧力計、速度計などをビル・レナード氏が回収し、1986年にワシントン海軍工廠内の海軍博物館に寄贈した。製造銘版は今はスミソニアンにあるらしい(通りすがりさんより指摘あり。現在は個人が所有しているとのこと)。 銘版の写真もあり、製造所:三菱重工業株式会社名古屋航空機製作所、名称:零式一号艦上戦闘機二型、形式:A6M2、発動機:中島NKI  馬力(?)、製造番号:第4593号、自重:1715.0t、搭載量:650.3t、全備重量:2365.3t、完成年月日:2-2-19、検印が読み取れる。もちろん実際は全て旧漢字の表記。
他の博物館に所蔵されている零戦についての記述もある。プレーンズ・オブ・フェイムの零戦はほぼオリジナルかと思っていたけど、主翼桁は新規に製作されたものだったんだな。
 
古賀氏の遺体はアクタンで零戦が回収された際、その近くに埋葬された。著者はその場所まで突き止めたが、既に遺骨はなく、どうも戦後のドサクサ時に他の遺骨とともに日本に帰ったらしい。
 
【付録】
4595号の飛行性能のデータ。
最大速度(km/h)/高度(m)の順。434/0, 462/1500, 491/3000, 525/4800, 517/6000, 507/7500, 492/9000。
上昇率(m/分)/高度(m)の順。825/0, 714/4500, 543/6000, 255/9000。
実用上昇限度11550m。
1942年11月4日に海軍航空情報局が航空技術情報第3号「性能と特徴の試験~日本の戦闘機~」を発行。内容は零戦の説明、性能、海軍戦闘機との比較。12月に陸軍航空隊が情報論文No.58を発表。内容は米軍機と零戦を一緒に飛行させ、1500m刻みで速度や上昇力、運動性などを比較したもの。上昇力の検証では余剰ズーミングの可能性をなくすためあらゆる努力がなされた、とあり。
 
  • P-38Fとの比較
先に足が離れたのは零戦。P-38が離陸したときには高度100mに達していた。1500mまでは5秒、3000mまでは4秒早く到達。4500mまではほぼ同じ。4500から6000ではP-38が途中で追い越し、6000m以上では低速での旋回性能以外はP-38が上。
 
P-39D-1との比較
高度0から1100mまでの上昇ではP-39が先に離陸、1500mに到達したときに零戦は1200mだった。1500mでの370km/hからの加速競争ではP-39が圧倒。1500から3000mへの上昇ではP-39が6秒早く、350km/hからの加速性能も同じくP-39の圧勝。3000から4500では3700mまでは同じ上昇率だったが、それ以上は零戦の方が上。4500での304km/hからの加速性能はP-39の方がやや勝る。4500から6000では零戦が逆転し、320km/hからの加速も零戦の方が早いが、30秒後にP-39が追い越した。 6000から7500mへの比較はP-39の燃料不足で中止。海面上から7500mへの上昇テストでは4440mまではP-39が早いが、7500mに達するには零戦より5分多く要する。7500mでの290km/hからの加速テストでは零戦の3機分ほどのリードが1分半ほど続き、追いつかれてから機体1つ分P-39が先行するのに更に30秒を要した。
 
P-40Fとの比較
P-40のエンジン不調のため中止。
 
P-51との比較
離陸から1500mへの上昇では零戦が6秒ほど先行。1500mでの400km/hからの加速ではP-51が一瞬で零戦を引き離す。1500から3000、3000から4500の上昇でも同じ。3000mでの400km/hからの加速、4500mでの385km/hからの加速もやはりP-51の圧勝。4500m以上ではP-51のエンジンが不調になったため、これ以上の高度でのテストは中止。レポートには「新型のマスタング」としか記述がないらしく、方は不明だが恐らくアリソンだと推測。
 
F4F-4との比較
300m以上の全ての高度で、速度、上昇力、航続力、実用上昇限度で零戦が上回る。海面高度での最高速度はほぼ同じ。
 
F4U-1との比較
あらゆる高度での水平速度、急降下速度および6000m以上での上昇力はF4Uが上。しかし1500mから5700mまでの上昇力では、零戦が上回る場面もあり。
 
結論
零戦は翼面荷重が小さいため、あらゆる米軍機と比較して機動力が勝る。対抗するために次のことを知っておくべきである。
  1. 高速では零戦の旋回性能は鈍い
  2. マイナスGがかかった状態では零戦のエンジンは止まる
零戦のエンジン性能は海面上から4800mまで吸気圧力が最大のまま維持されており、ターボ・スーパー・チャージャーが装備されていない現用エンジンに勝る。
 
勧告
  1. 零戦との格闘戦は決してやってはならない
  2. 時速480km/h以下の速度では、零戦のすぐ背後についていない限り戦わぬこと
  3. 低速で上昇しているとき、零戦を追わぬこと。わが軍の戦闘機が失速してしまうような急上昇角でも、零戦は最適機動速力に達している。この時点で零戦は完全に宙返りして背後に回り後方攻撃可能の位置に付くことが出来る
  4. 零戦に対抗する戦闘機は、出来るだけ軽量にするべきである。戦闘に絶対必要という装備以外は取り除くべきである。
攻撃と防御戦術
零戦は補助翼が大きいため、480km/hまでは高い機動性を発揮するが、480km/h以上では180度旋回することが実際には不可能。旋回性能も右から左の方が早い。顕著な特徴はズーム上昇率が大きいことである。このズームはほとんど垂直に近いもので、開始速度にもよるが450mから600mまで維持することが出来る。
 

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コメント 2

通りすがり

ネット検索でたどり着いた者です。

製造銘板は個人が持っていてスミソニアンにはありません。

失礼しました。
by 通りすがり (2011-09-18 10:48) 

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